浦和の歴代監督の辞め方・その後を勝手な印象で振り返ってみると、
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
◆森孝慈
→「10年分ぐらい、負けた。」その後GM就任。福岡のGMだったりもした。比較的幸せ?
◆横山謙三
→第一次政権時はともかく、浦和の昇格時の監督であり、その後に取締役に就任。監督経験者としては最も幸せか?しかし、当時の犬飼社長とどういう関係にあったのかは、不明・・・。
◆ホルガー・オジェック
→第一次政権時は浦和を救ってくれた功労者。第二次政権時にもACLを制するなど素晴らしい実績を挙げたものの、闘莉王軍団と意見が合わずにチームが崩壊、2008年に2試合で解雇。
◆ホルスト・ケッペル
→オジェックよりも攻撃的にと改革をしようとしたが、結果に繋がらずに1年で解任。
◆原博美
→選手やサポーターにも慕われ、98年の2ndステージは3位で終わったものの、翌年当初に低迷。きちがいみたいな、サポーターと称する人の突き上げもくらい、シーズン半ばで解任。
◆ア・デモス
→よくわからないままチームをJ2に降格させ辞任。「
ファイブファイナルズ」という単語は残った。
◆吉田靖
→ア・デモスがリーグ戦までで辞任したので、その後の天皇杯の指揮を執る。その後、U-20日本代表監督を務めてAFC選手権で準優勝したり、それ以前も浦和ユースを優勝させたりしている、育成能力に定評がある。
◆ミルトン・チッタ
→パスサッカーの構築を目標にし、結果もそこそこ残したが、ナビスコカップ敗退後に辞任。あれ、何で辞任したんだっけか?
◆ピッタ
→エメルソンのお守り役としてコーチングスタッフに加わるものの、チッタの辞任に伴い、たまたま監督ライセンスを持っていたピッタが監督就任。特に何を指導することもなく連敗したものの、最後はチームをまとめ上げて無事J1残留。エメの独り立ちを見届けて辞任。
◆ハンス・オフト
→「浦和の憲法」構築を請われて監督就任。アイコンタクト・3ライン・追い越し禁止などの決めごとを作り、チームを同じ方向へ向けることに成功。クラブ初タイトルを獲得するものの、その直後に辞任発表。犬飼社長との衝突が原因。まぁ、辞任しなくても解任される予定だったようだが。
◆ギド・ブッフバルト
→クラブの拡大路線と相まって、最高の成績を挙げた。天皇杯を優勝し、自らの意志で辞任を決め、クラブとしても最高の形で送り出した・・・、つもりだったが、その後フィンケの就任に際してクラブと仲違い。
◆ゲルト・エンゲルス
→オジェックが2試合で解任され、その後を引き継ぐ。根っからのいい人なんだけれども、チームに新しい風をもたらすに至らず、弱体化していくのをただただ見守るしかできなかった。1年未満で解任。
◆フォルカー・フィンケ
→「人とボールが動くサッカー」を標榜し、チームの大改革に着手。結果がなかなか伴わないものの、内容は目を見張るぐらいに進化。サポーターの多くはその方向性に確信をもっていたが、多くのマスコミや三菱自動車関係者には嫌われる。サポーターの声よりもスポンサーの方が大事なへなちょこフロントでは支えきれず、道半ばで解任。
◆ゼリコ・ペトロビッチ
→ ・・・・・・・・・
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
えー、改めて振り返ってみると、ずっとこんな感じなんですが、それが監督という職業の宿命なんでしょうか?
はたまた、浦和レッドダイヤモンズの業なんでしょうか?
すみません、やっぱりどーでもいいですね・・・
ほんとだ!下書きには書いてあったんですが、コピペ時点で落ちたのかなぁ・・・。
まぁ、そういう内容だったんですがw。